歌を歌うプロフェッショナルとしてアーティストのバックやCMで歌を歌うハルナさんは、山下達郎さんのライブツアーでもバッキングボーカルを務め、日本中を巡っている。
「シンガーを目指す」というと、センターに立って歌うことを目指しがちだが、ハルナさんは、自分の声で音楽が調和していく楽しさを知り、バッキングボーカルとしてサポートする事に喜びを感じているそう。
歌唱力を評価され、周囲からシンガーとして求められてきた彼女が、自分の内面に溢れる曲作りへの欲求を受け入れ、音楽家として自分がどうありたいかを考えられるようになるまでのお話です。
母と歌う歌の楽しさがはじまり。
私の母は大学生の時に60年代のアメリカのフォークソンググループ「PeterPaul&Mary」のカバーバンドをしていて、物心ついた頃から日常に音楽が流れていて、母もよく歌っていました。お風呂でよく二人でハモっていたのはとっても楽しかった。そういう環境にいたからか、気づけば音楽が大好きで、大人になったら音楽をやろう、と自然に思っていました。
高校生になると学校の軽音楽部の友人と地元の幼馴染とバンド活動を始めました。女の子6人のガールズバンド。私が曲を作り、ボーカルを担当しました。まだ譜面も作れないような時でしたから、私達しか読めないような独自の譜面で(笑)、若さと勢いでみんなで音を覚えました。
ヤマハが主催する10代のバンドコンテストに毎年エントリーして、関西地区のオーディエンス賞をもらったことも。そのコンテストには今もご活躍されているaikoさんも毎年出場されていました。わたしより一つ年上の彼女は、当時から今とほとんど変わらないスタイルで歌っていて、完成度の高さは衝撃的でしたね。
私の好きな音楽のジャンルはフォークソングやカントリーミュージック。当時、同世代の子たちからすれば古くてダサいと思われるような音楽が好きだったんです。だから大人になっていくにつれ、徐々に自分の好きな音楽に自信が持てなくなっていきました。
メジャーデビューを断る!?
高校卒業後は音楽の専門学校に。そこでプロを目指して20代後半まで長く共に活動することになるバンドのメンバーと知り合います。同時に学校の先生がわたしの歌を聴き、「いい歌を歌う子がいる」と知人に推してくれ、仕事をすることに。それがきっかけでCMやナレーションなど、歌を歌ったり声を使う仕事を始めたのが19歳の頃。楽曲よりも歌唱力が先に認められることに。
プロの方と仕事をするようになると、自分の声が全然出てないことや明らかに発声の基本が出来ていないことに気づき始めました。もっとちゃんと声を出せるようになりたい、もっと音楽の勉強をしたいなと思うようになり、アメリカに留学することを考えていました。その頃は自分の声が好きになれなくて。他の人の声が素敵に聞こえて、自分に無いものを求めていたのかもしれません。
NYに行く前にそのバンドで出場したコンテストで審査員の目に止まり、ご縁が繋がってメジャーデビューの話が持ち上がっていました。
そこで、まずは1年アメリカでボイストレーニングし、帰国してからデビューするという流れになったんです。そしてNYから帰国し、デビューするために大阪から上京しました。23歳の頃です。
でも、いざデビューとなるとなかなか前に進めない自分を感じて。これまで当然のように音楽で仕事をするものだと思っていたのに、自分がどんな音楽をやりたいのかグラグラとぶれ始めてしまって。プロジェクトの内容もよくわからないし、デビューをサポートしてくれる人たちに対しても「お互い何も知らないのに、、、」という不信感もぬぐいきれず。
結局デビューすることはお断りしたんです。若さや世間知らずのため、不信感を持ってしまいましたが、今思えば軸がブレたまま先に進まなくて良かったと思っています。
先の見えない3年間。
それから3年は暗黒時代でしたね笑。デビューを断った上、東京には全く音楽的な知り合いがいなかったので。それでも音楽をやめる気にはならず、自分でサポートメンバーを探し、ライブハウスを手配して、ライブ活動を続けました。
それだけでは収入はないので、東京と大阪を行き来しながら関西のコミュニティFMでパーソナリティをしたり、NYで学んだことやそれまでの経験を生かし、ボイストレーナーの資格を取り、トレーナーとしてレッスンをし、なんとか生活していました。
そのうちに、少しづつCMシンガーに起用されたり、スタジオレコーディングのお仕事をいただけるようになってきたんです。そこから、自分と同じ気持ちを分かち合える友人や、信頼できるシンガーにたくさん出会うようになり仕事の幅が徐々に広がっていきました。
歌の仕事は急な依頼も多いため、レッスン枠が決まっているボイストレーナーの仕事との両立がだんだん難しくなり、先が見えないながらも思い切ってトレーナーの仕事は辞めることに。すると、そこを境に自分の声や歌で仕事をもらうことが増え、ようやく音楽を作る現場だけで生きていけるようになったんです。最初に自分が思い描いていた立ち位置とは違う裏方のシンガーだったけど、世間的に評価され、歌うことに自信もついていきました。