やりたいことは人に伝えなければいけない、と気づいた日。
16歳でバンドを始めた頃、自分で曲を作り、自分で歌っていました。そのうちに歌唱力が先に認められ、「シンガー」としての仕事で生きていくように。プライベートで曲を書くこともしていたけれど、仕事に直接結びつくことではないので、曲を書くことを人に言うことはありませんでした。わたしが曲を書く人だってことは身内以外、誰も知らなかったんです。
でも、達郎さんのような自分の音楽を心から愛している人と仕事をしていると、自分のアイデンティティーを振り返らざるを得ません。
それまでひた隠しにしていた曲作りのことを、ようやく長年お仕事でご一緒している関係者の皆さんにも言おう、デモを聞いてもらおうと心が決まったんです。シンガーとしてはキャリアを積んできたけれど、曲作りについての自信もノウハウも乏しかった。でも、勇気を出して自分を表現したことで、仲間ができたり、ついには楽曲を提供するチャンスをいただけることに。
ギタリストの佐橋佳幸さんがプロデュースする花澤香菜さんのアルバムに私の楽曲が一曲入ることが決まったと聞いた時、楽屋で嬉しくて号泣しました。
歌を歌うことで初めてお給料をもらった時よりも何倍も嬉しくて。ああやっぱり、私は曲作りがしたかったんだな、と実感しました。
自分のやりたいことは人に伝えなければいけない。本当にそう思った瞬間でした。
前に立つということ
私が曲作りについてなかなか人に言えなかった背景の一つに、過去のトラウマがあるなと感じています。それは、自分がバンドを組んでボーカルをしていた時、ライブ後のアンケートやネットで辛辣な批評を受けたことに傷ついていたから。当時私は自分の好きな音楽に自信が持てず、音楽的根幹がブレている時でもありました。だからこそ余計に痛かったのかもしれませんが、その時は、厳しい声に自分がどう対処していいのかわかりませんでした。
今思えば、何を言われても「これが自分の音楽だ!」と一つでも認められるものがあれば違っていたんだろうと思います。
バックコーラスとして、センターで歌うアーティストの方達の背中を見ていると、学ぶことがたくさんあります。前に立つと言うことは応援だけをもらえるわけではなく、厳しい声や批評も少なからず受けるもの。矢面に立って、そういったものすべて受け止めてくれてる人がいるから、わたしもここで歌うことができる。
私の音楽的ルーツは60,70年代アメリカのアコースティックなカントリーミュージックを主にしたものに由来し、そこから派生してきたのだということにようやく気付き、たとえ時代にあっていようとそうでなかろうと、自分の音楽を磨き、作っていこうと思えるようになりました。
ようやくこの場所に還ってくることができました。
子どもを産んだからこそある今。
バックコーラスとして活動し始めた頃は、そこが自分の場所と感じ、サポートすること、人と音楽を作ることに楽しさを感じていました。
でも子どもが生まれ、時間も体力も以前とは使い方が変わってしまった時、限られた時間をもっと自分にとって純度の高いものにしたいと心のどこかで思い始めたのだと思います。それが違和感や疲労感となって私に気づかせてくれた。「曲を作りたい。表現をしたい」と言う想いを思い出させてくれた。
もし子どもを産んでいなかったら、そこに気づくことはなかったかもしれないなと思います。華やかで楽しいことに流されて、もっといい加減に生きていたかもしれない。「音楽家として一人で立つ」と言うことを真剣に考えなかったかもしれない。
本当に子どもを産んでよかった。そこからわたしの人生がきらめき始めたと思っています。
ハルナ
1976年4月5日生まれ
高校生から本格的にバンド活動を開始。
22歳の時自己の音楽観の追求と学びの為、単身渡米。約1年間の留学の後、帰国後、上京。
CMや映画音楽、多数のアーティストのバッキングボーカルを勤める。2004年~2009年にオンエアされていたグリコ「BREO」のCM「あっかんべ~」では各所に問い合わせが殺到。
これまでに平井堅、中島美嘉、松任谷由実、坂本真綾、福原美穂、JUJU、Kinki Kids、嵐、上戸彩、松田聖子などの
レコーディング、ライブ、全国ツアー等に参加。
http://haruna.cc/