中華街から発信するアジアの美。テキスタイル・ファッションデザイナー 早園真己

横浜中華街にお店を開いて今年で20周年を迎えるアパレルブランドROUROU(ロウロウ) パリコレモデルとして活躍した早園真己さんがデザイナーとしてネオアジアンテイストの服を作り続けている。服作りも販売も一般的なアパレル業界のルールに囚われず、自分たちの心地よい方法を模索し続けて20年。顧客や地元の人たちに長く愛されるポイントはどこなのだろうか。

ROUROUってどんなブランドですか?

朧朧国(ろうろうこく)という、古くはヨーロッパや中国の影響を受け、争いのない独特の文化や美術を持つ進化した未知の国...そんな理想の国がアジアにあると仮定し、その国の服などをイメージしてデザインしています。
着たり身につけたりすることによって日本やアジアの女性達に自らのアイデンティティに誇りを持ってもらうことが出来たら、というのをコンセプトにしたブランドなんです。

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私はそのブランドの商品企画から服のデザイン、店作りに至るまで一連の流れ全てに関わっています。ROUROUにしかない独自性を求めるうちにテキスタイルもデザインするようになって、プリントやジャカードの図案も私が描いているんですよ。

ROUROUは夫と二人で立ち上げ、今年でちょうど20年になります。私はモデルの仕事をしたり、スタイリストの学校に行ったりと、ファッション業界で仕事をしていたものの、「服を作る」ということには関わったことはなかったんです。最初は本当に何も知らないところから二人でスタートでした。

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アパレル業界の「普通」をほとんど知らなかったので、いい意味でも自分たちの独自のやり方で服やお店を作ってブランドを育ててきました。

どうして自分のブランドを作ろうと?

小さい頃からファッションが大好きだったんですよね。習っていたバレエ教室でかわいい衣装を着れるのがとても楽しくて今でも強く記憶にあります。当時は大人しくて目立たないタイプの子どもだったのですが、好きな服を着ることで自分を表現できるし、何より気持ちが上がるのを楽しんでいました。

将来を考えるようになったとき、ファッションの仕事はしたいなと思いつつも、服のデザインは無理だろうなと思いスタイリストの学校へ。でも実際にスタイリストの現場に立った時、自分には違う気がしました。

それからモデルを目指し勉強を始め、スカウトをきっかけにモデル事務所に入ったんです。モデルという仕事も簡単にお仕事を頂けるものではないので、オーデションを受けながらチャンスを待っていました。そんな頃、当時付き合っていた今の夫とよく二人で「将来何がしたいか」とよく語り合っていたんですよね。

夫は小さいころシンガポールに住んでいたので、よく自分が日本人であることを感じさせられる場面が多かったんです。だから日本人としての誇りを大事にしていて、日本的なものを海外に発信して行きたいという気持ちを持っていました。私もちょうどその頃、モデルとして大きな仕事を経験したことからアジアンビューティーの素晴らしさを感じていたので、二人で日本やアジアの美しさを発信するお店をやろう、というところから始まっていったんです。

ご夫婦でROUROUを作ってきたんですね?

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そうです。最初は二人でお店を始め、徐々にスタッフが増えていきブランドになっていきました。
彼と私はお互いタイプが全然違っていて。それがすごく良かったんでしょうね。最初は「雑貨屋をやろう」という話だったんですが、私がいいなと思うものは服ばかり笑。そのうち自分で服のデザインもするようになってしまい、蓋を開けたら服屋になっていました。
彼は人から可愛がられるタイプ。どんな世界でも臆せず飛び込めて、自然と人の輪を広げていけちゃうんです。おかげで普通はなかなか出会えないような人たちとも出会うことができ、ブランドを続けていく過程で色々とアドバイスをもらえました。二人でやってこれたことは良かったなと思います。